2/07/2013

“レッテル”の考察

多くの人は、色んなものにレッテルを貼り判断する傾向がある。


あの食堂、一回行ったら不味かったから行かない。

あのバンド、CD聴いたらイマイチだったからライヴあっても行かない。

あの飲み屋、マスター無愛想だったからもう行かない。

あの議員、街頭演説最悪だったし絶対に票入れない。

あのタレント、言ってる事が性格悪そうだから嫌い。


…などなど…挙げれば限がない。


どうやら、こうして人々は自分の行動を調整しているようだ。
レッテルを貼って判断することで区別が出来る。
※この場合、決して差別ではない※


その発言、作品、印象は公衆に発信することで一人歩きする。
発信を受けた人々の判断に委ねられるのだ。
そこが、人々が好き勝手言いながらストレスなく行動出来るポイントだ。


…と、いうのも、


公衆で発言したり、作品を発表したり、料理を作ったりする人。

その人となりを知ってしまったらどうだろう?

簡単に「嫌なものは嫌」と言い難くなってしまうのが日本人の性格だ。


良く知る人が食堂を始めた。
一度行ってみたら不味かった。
もう行かない。

…と、なる?

付き合いだから今度は別なメニューを食べてみる、とか、
中でも何とかイケるメニューを探す、とか、
はなはだしい場合はアドバイスしてみる、とか、

一度行って無視とはいかなくなるでしょ。


ミュージシャンやバンドであれば…

音楽は好みじゃないけど知り合いだからCDを買う、とか、
パッとしないバンドだけど知り合いだから観に行く、とか、

議員やタレントであれば…

ああ可哀想、あんなこと言わされて…、とか、
あんなこと言ってるけど実は良い奴だから応援する、とか、


完全にスタンスが180度ひっくり返りがちだ。


…ただ、


色んな場でこうなってしまうと忙しくてしかたなくなる。
シガラミに振り回され、あっちもこっちも贔屓にしなきゃならん。
更には“自分の好み”を抹消してしまう破目になりかねない。


「レッテルを貼るのは良くない」

…と言うが、

こんなレッテルは大切なんじゃないかと思う。


おわり。

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