多くの人は、色んなものにレッテルを貼り判断する傾向がある。
あの食堂、一回行ったら不味かったから行かない。
あのバンド、CD聴いたらイマイチだったからライヴあっても行かない。
あの飲み屋、マスター無愛想だったからもう行かない。
あの議員、街頭演説最悪だったし絶対に票入れない。
あのタレント、言ってる事が性格悪そうだから嫌い。
…などなど…挙げれば限がない。
どうやら、こうして人々は自分の行動を調整しているようだ。
レッテルを貼って判断することで区別が出来る。
※この場合、決して差別ではない※
その発言、作品、印象は公衆に発信することで一人歩きする。
発信を受けた人々の判断に委ねられるのだ。
そこが、人々が好き勝手言いながらストレスなく行動出来るポイントだ。
…と、いうのも、
公衆で発言したり、作品を発表したり、料理を作ったりする人。
その人となりを知ってしまったらどうだろう?
簡単に「嫌なものは嫌」と言い難くなってしまうのが日本人の性格だ。
良く知る人が食堂を始めた。
一度行ってみたら不味かった。
もう行かない。
…と、なる?
付き合いだから今度は別なメニューを食べてみる、とか、
中でも何とかイケるメニューを探す、とか、
はなはだしい場合はアドバイスしてみる、とか、
一度行って無視とはいかなくなるでしょ。
ミュージシャンやバンドであれば…
音楽は好みじゃないけど知り合いだからCDを買う、とか、
パッとしないバンドだけど知り合いだから観に行く、とか、
議員やタレントであれば…
ああ可哀想、あんなこと言わされて…、とか、
あんなこと言ってるけど実は良い奴だから応援する、とか、
完全にスタンスが180度ひっくり返りがちだ。
…ただ、
色んな場でこうなってしまうと忙しくてしかたなくなる。
シガラミに振り回され、あっちもこっちも贔屓にしなきゃならん。
更には“自分の好み”を抹消してしまう破目になりかねない。
「レッテルを貼るのは良くない」
…と言うが、
こんなレッテルは大切なんじゃないかと思う。
おわり。
2/07/2013
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